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「砂上の楼閣としての信念」

 

■人間は人間になったときからすでに多かれ少なかれ、信仰や信念が必要になったのかもしれません。言葉が発生し農業から村落を形成すると、さらに確固たる信仰や信念が必要とされたのかもしれません。特に村落共同体から都市に発展する段階では、大勢の人々と伴に暮らさねばならず、権力やルールなどの社会性の増大のなかで都市や国家が誕生すると、信仰や信念の必要性が深刻に高まった可能性があります。

 

2200年から2800年前には、イスラエルの預言者、ギリシャの哲学者、中国の諸子百家、インドの仏陀など世界各地で人類が個人としての自覚、精神の目覚めを経験した時代であるとヤスパースは言及する。人類の都市化や国家の形成期であり、人類がはじめて多数の国や都市から、同時多発的に地政学的危機と国家危機から都市生活の個人的苦悩から、大きな危機の時代に普遍的な思想哲学が発達したと考えられる。

 

これらの思潮(思想・哲学)の急激に発達した時代には「信仰や信念」についても語られ、現在にも引き継がれている思想が多く出現しました。神や真理も含む「信仰や信念」が強靭化した時代でしたが、同時に「信仰や信念」に対する相対主義や懐疑の思想も繰り返し形成されました。よって、すでにこの時代には「砂上の楼閣としての信念」に関する思想や考察が観られ、古代ギリシャよりはるかに古い、古代エジプトや古代メソポタミア以前からすでに重要な信仰や思想の問題として、現在まで何千年と継続している人類のテーマだと思われます。

 

■「砂上の楼閣としての信念」とは言い換えれば、揺れ動く信仰や信念であって、その前提にあるのは、神であり真理であり正義であり悟りでありもろもろ「絶対的に正しいと思われるもの」かもしれません。それらを信じようとする人間の意識を「信仰とか信念」と呼んだらよいと思われます。数万年前以上前に森で暮らし、言葉の種類も少なかった時代にも当然あったのでしょうが恐らくよりシンプルでより強靭な「信仰や信念」であったと思われます。

農耕や村落から都市の形成によって、生存の安定性などにより「絶対的に正しいと思われるもの」が薄くなり複雑になりはじめたのかもしれません。それでは共同体も存続できなくなってしまうので、都市化や文字の発達に伴って、神や真理や正義や悟りなど「絶対的に正しいと思われるもの」の説明や物語が重要となり、また重要なその説明をする人間が必要となったと言えるのかもしれません。はっきりとした現象として説明ができませんがそんな流れかもしれません。この説明自体、それぞれの信仰からは相対主義側としての立場に立っていることになるかもしれません。

 

    2,600年程前にインドのゴータマ・シッダッタ(お釈迦様)は、絶対的真理への方法と同時に苦しみや迷いによって「信仰や信念」が常に揺れ動き、お釈迦様自身もすべての苦しみや迷いから逃れられないことを明瞭に説明し、無常という考え方をはじめ「砂上の楼閣としての信念」を最もよく説明していたと思われます。信仰としてではなく思想としてみても真理と相対主義的領域を並立させ説明しています。

 

    古代ギリシャからのラテン世界は最も理性的な文明であり、最も真理について研究された時代や地域だったかもしれません。プラトンに代表される絶対的真理の存在からアリストテレスなど真理への論理展開などから、ソクラテス以前から反対の相対主義など現代にテーマとなるほぼすべての哲学や思想が展開されていたと考えていいのかもしれません。よって神や真理や正義などへの「信仰や信念」の揺らぎである「砂上の楼閣としての信念」は繰り返し議論されたテーマでもあったと思われます。

 

    新約聖書を信仰としてではなく思想として観た場合、主人公のイエスは最期の処刑直前に「神よ、わが神よ、どうして私をお見捨てになったのですか?」と語っています。これは実際に主人公の最期の言葉であると思われます。聖書には信仰を自ら最期の瞬間にも疑ってしまう主人公が表現されています。神の子でさえ、最後の最後には自分や神や「信仰や信念」を疑ってしまうことがあることが、隠されもせず表現されています。思想の表現として観たとき「砂上の楼閣としての信念」が、これほど激しく赤裸々に表現されていることに驚きます。どんな人間よりイエス自身が誰より「信仰や信念」に最も迷い苦しんでいた姿が描写されています。

 

    近代ヨーロッパにおいてはニーチェやドストエフスキーが、古代ギリシャを受け継ぐルネサンスから最も理性的で合理的な近代そのものを批判しはじめ、ニーチェは「砂上の楼閣としての信念」を個人で克服し信念として肯定できると提案し、ドストエフスキーは「砂上の楼閣としての信念」は信仰でありスラブ的伝統でありとして、やはり砂上の楼閣を根本的に克服は不可能であるが、それも受け入れながら「信仰や信念」を追求するべきと表現しているように思える。また古代中国や古代インドにおいても信仰や哲学や思想において「砂上の楼閣としての信念」は繰り返しテーマとして議論されていると思われる。

 

    砂上の楼閣としての信念の本文章にて「鴨長明」「柳田国男」「小林秀雄」についてふれた。鴨長明は明瞭に「砂上の楼閣としての信念」を表現している。いかなる悟りへの道を模索し積み重ねても悟りも信仰もわからなくなってしまう瞬間は繰り返される。日本の古典にあって最も明確に表現されている。小林秀雄は「信仰や信念」と「理性や合理性」について双方は矛盾することなく併存できると説明している。ドストエフスキーから後期には本居宣長など日本の「信仰と信念」と「近代性」を表現し、平安からの日本の情緒や価値観「もののあわれ」を提案した。「砂上の楼閣としての信念」と「もののあわれ」は、どちらも仏教から影響を受けている。

三島由紀夫は「信仰と信念」を「砂上の楼閣としての信念」を内的に還元することを拒否し、「信仰と信念」を迷いのまま不明瞭のままにせず、本物の「信仰と信念」とするべきであり、そのために命もかけるべきであるとした。戦国時代から江戸時代に入り、実戦のない武士が「砂上の楼閣」を意識し武士道を構築していった。三島由紀夫は晩年、武士道ではなく戦国武士を志向した。戦国武士に信念をみた。「砂上の楼閣でない信念」へ行動したと言える。山での生活や戦国武士は命を掛けた厳しい生活をもっていた。本来の「信仰や信念」はそこから生まれてきた。命や安全が保証されている信念は「砂上の楼閣」の要素が混入してしまう。平和や平時が長くあることは素晴らしいことであるが「信仰や信念」にとって危機的な時代ともいえる。三島の晩年は「砂上の楼閣でない信念」を証明するための思想と行動であった。戦中と戦後の実体験から、死を前提とた「生」のみが生き生きと生きることができることを確信する。「限りある命なら永遠に生きたい」・・・限りある命なら永遠(絶対性・信仰・信念)と伴に生きたいと思想した。

「メメント・モリ」carpe diem「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」ホラティウス

充実した1日は豊な睡眠を、充実した一生は豊かな死をもたらす。As a well-spent day brings happy sleep, so life well used brings happy death. ≪レオナルド・ダ・ヴィンチ≫


坂口安吾は小林秀雄を批判したが、重要な点を指摘している。【やつぱり私の心眼を狂はせる力があつて、それは要するに、彼の文章を彼自身がさう思ひこんでゐるといふこと、そして当人が思ひこむといふことがその文学をして実在せしめる根柢的な力だといふことを彼が信条とし、信条通りに会得したせゐではないかと私は思ふ。】根源的な力である思いこみこそ「砂上の楼閣でない信念」であることを安吾は感じとった。

 

「信仰や信念」が長く疎かにされる社会は没落から滅亡へ向うと思われる。長く継続した国家は信仰や信念が薄くなりにくい制度や環境を繰り返し修正したに違いない。なにより個人にとって「人生の午後」に信仰や信念がないのは地獄であろう。吉本隆明は「それは信仰のあるなしにかかわらず、あるなしの問題とは別にして、生き方ってことでもいいんですけれど、自分に、自分自身に問うた場合、自分自身を信じ切れるかって」として「信仰や信念」の揺らぎを多くの思想から何度も繰り返し指摘している。

 

■鴨長明は都が大飢饉や地震や大火災にあっても、僧侶として死者をともらうことに大きな時間を割くことなく、また災害にあった生きた人々の救済活動をすることなく、一人山にこもってしまった。同時代の同地域の共同体や他者に行動をとっていない。その意味では戦中の小林秀雄も戦争そのものから離れ社会的沈黙をした。鴨長明も小林秀雄も日本が大災害の最中、大災害とは関係のない思索と表現にふけっていたといえる。現代から考えれば多少ボランティアくらいしてもいいように思われ、イザというとき何もしていないと批判されそうである。両者はそれらの批判を受入れるかもしれない。しかしながら、鴨長明も小林秀雄も死後、片や800年片や40年経過しているが、同時代に起きた甚だ大きい災害に対して、どのような態度で生きればよいか、長い時間が経っても色あせることなく、重要と思われる文章や思想を残していた。

よってこれらの知識人は大災害の最中に沈黙によって何も行動することはなかったが、大災害そのものを誰よりも深く感じ苦しんでいたのかもしれない。少なくとも大災害のあと両者は長期に渡って、日本人の苦しんでいる者や絶望している者のために大きな役目を果たし続けている。「ミネルヴァのフクロウは、タ暮れどきに飛び立つ」ヘーゲルの言葉通り学者や批評家は時代終焉のあとに語り始めるのかもしれない。

 

■砂上の楼閣と感じながらも、なぜ「日本の生き残り」に関してこだわるのか?恐らく論理的にすべてを説明はできず、なによりその説明によって「日本の存続についての自己意識」を説明できるとは思えない。大災害が目前にあっても、学者や批評家はなにも語れない。学者でないのでもろもろについて語ることができるが、論理的な説明もすればできるが、大規模危機を直前に感じ、直観としかいえない感情が「家族や日本人の生き残り」に関して緊張と不安を走らせるのである。自分の子供や近所の幼児が道路に飛び出しそうになり、近くでそれを目撃したら「危ない」と思わず大声で叫びたくなるか、子供が飛び出さないように物理的に阻止できるなら、即座になりふり構わず行動したくなる。こんな心理に近いのかもしれない。問題は「現在の日本に大きな危機」が観えるか観えないかであると思われる。どちらにしても個人思想では「砂上の楼閣としての信念」であることには違いない。

 

■「砂上の楼閣としての信念」や「信仰や信念」の揺らぎや迷いは、完全に解決されることなく、今後さらに数千年と人類と伴に問題を継続していくに違いない。「砂上の楼閣」であると感じたうえで、または確信したうえで「砂上の楼閣でない信念」構築を目指し、自己にも他者(共同体)にも表現していくことで、一時的に幻想であると確信しても、また必要性から「信仰や信念」を表現していくことを繰り返すと思われる。特に「人生の午後」には「砂上の楼閣」であると感じたうえであっても「信仰や信念」の必要性から、一時的であっても「砂上の楼閣でない信念」を確信することを望むしかない。何千年前から、今も、今後何千年も「砂上の楼閣としての信念」は繰り返し、個人と社会の重要テーマとして意識されるに違いない。



砂上の楼閣としての信念「鴨長明」「柳田国男」「小林秀雄」個人思想の死生観について【人生の午後】


「柔らかいナショナリズムの誕生」日本を再び戦場とさせないために