50年以上前(昭和40年代)の故郷での記憶。私が小学生のころ3世代6人で暮らしていたが、それ以前に祖父母と一時期の別居期間があったらしい。私が2歳になったころから、母は働きに出た。母が働く時間帯は、祖父母にあずけられた。昼間おじいさんとおばあさんと3人で居た記憶がぼんやりと残っている。
私が3歳になると、保育所のようなところにあずけられた。今おもえば母が本格的に働きだしたのかもしれない。なぜ祖父母と別居がはじまったのかは最近まで分からなかった。30年以上経ち、私が家族をもったあとに祖父母との別居の話を母から聞いた。
その日の出来事は、私の人生最初の記憶であり最初の企てであった。保育所で誰かの誕生日のお祝いにラウンドケーキが準備されていた。たしか、ケーキがテーブルにセットされたとき、私はケーキに指をつきさした。なぜそのような行為に至ったのか動機は思い出せない。
その後、怒られたあと、とてつもなく面白くない気分であり、寂しい気分となったことはぼんやりと覚えている。恐らくはじめて家族以外との共同生活で、子供ながらにストレスであったのだろう。
とにかくこの場所から逃げ出したくなった。その感情は覚えている。大人の胸ほどの高さの木製の壁で覆われた場所があり、その外側は駐車場であった。かすかな記憶だがその壁を超えるべく何度かチャレンジした。
テーブルか何かの台に登り、そこから壁に移った。そしてジャンプした。わずかな時間に衝動的に行動に移したと思われる。
保育所から脱走したあとに、3歳児の足でも、誰も追いかけてこなかったので、スタッフに誰にも見つからずに脱走に成功したのだろう。
その保育所から100M程度の場所に、おじいさんの家目指して走ったか歩いた。記憶にないが、脱走を企てるときに同時におじいさんの家にいこうと思ったのだろう。
大人になってから100Mと冷静に考えたが、壁をジャンプしておりたあと必死になって、駐車場から一般道へ出た。車やバイクがはしり、当時の田舎はけっこう人も歩いていた。3歳児が1人走って(歩いて)いるのに誰にも止められることなく、一般道の歩道を1人必死に、おじいさんの家を目指した。
10分もかからない道のりであったのだろうが、3歳児であっても不安と緊張をかかえており、長い道のりに感じた。おじいさんの家の庭が見えると、なんだか安心したことを覚えている。おじいさんの家の庭から家になにもいわず(3歳なのであいさつなし)でいつもの遊び場である部屋に入った。
そこには、おばあさんの1人掛けのソファー椅子があり、そのソファー部分のバネに繰り返し飛び跳ねた。なんだか嬉しく、とてつもなく憂鬱な場所から、勇気を爆発させて、逃げ出し、目的の安住の地に到着して嬉しかったのだ。
小躍りではなく文字通り嬉しさから踊り飛び跳ねていた。今思えば、人生においてはじめての勝利感を味わったのかもしれない。不安はあったが、罪悪感は全くなかった気がする。
最初におばあさんが、ソファー椅子で飛び跳ねている私を発見し「あら、マーちゃん」といったのを覚えている。慌てておじいさんを呼び、2人で私を見ていた。
そのあと連絡を受けた母が、病院の栄養課の白い作業着のまま駆け付けた。おじいさんたちとなにやら話しすぐに戻ってしまった。そのあと、いつものように、お菓子を食べながら遊んだような気がする。安住の地に戻ることができ気分がよかったのだろう。
そのあとの記憶が全くないが、105歳まで生きたおばあさんから小学生のころ、このエピソードを何度か聞いた。おじいさんがとても驚いたこと、保育所がたいへんだったこと、母を呼び出したことなど話した。そのときの、おばあさんの嬉しそうな表情を鮮明に覚えている。人生最初の武勇伝となった。
息子夫婦と別居がはじまり、めんどうをみていた孫が保育所を脱走し、おばあさんの前に突然現れたのである。息子夫婦は出て行ったが、3歳の孫は自分の意思で戻ってきたのである。
その日の夕食のとき、まだ若かった父と母と小学生の兄は、家族だんらんのとき話し皆で驚き、私にいろいろ聞いたが、もっともらしいことは何もわからなかったそうである。おばあさんのソファー椅子のうえで、とても嬉しい気持ちであったことは鮮明に覚えている。
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