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このブログは主に、地震や洪水や津波などの「自然災害」ではなく、21世紀には自然災害を圧倒する、疫病・恐慌・戦争・革命・飢餓などの「人為災害」について書いてます。新型コロナウイルスのパンデミックが進行中の現在、すでに人為災害が、長期の乱世に突入させたと考えられる。

 

歴史は、乱世(人為災害での混乱期)と治世(比較的平和な時代)に分けて考えることが多い。乱世では人は不幸であり、治世の世なら人は幸福か?全体ではそのような側面も十分考えられるが、個別(個人)では、そうとは限らず、平時(治世)にも地獄があり、乱世にも生き生きとした生活もあると考えられる。

 

よってコロナ禍なので、自身は不幸にならなければならない、ということはない。いかなる乱世であっても豊かさを、追求できると考える。反対に、コロナ禍以前の治世(平時)であっても、個人的には地獄があったことを振り返る。早い結論として、人間は乱世であっても、平時であっても、深刻な苦しみからは、逃れられない。

 

海外生活が20年近くになっていた。実家に、80歳近くになる母が、1人暮らしをしていた。たまの電話から、毎日携帯メールをするようになった。安否確認のために。ある日、メール返信がなく不審に思い、携帯に電話をしても何度も留守電であった。親戚に電話して、様子をみてもらおうとしたタイミングで、母からメールが着信して「入院したけど、メールはできるようになった」との内容であった。心配ないとの話だが、分からないので直接電話したが、あいまいなので病院名だけ聞いて、病院に事情を話し、入院に関する今回の事情を説明してもらった。

 

庭で転んだあと、起きられなくなり、すでに外科的治療は終えたが、以前からの歩行に問題があるのは、脳に問題がある可能性を、医者が指摘して検査入院することなった。とのことだった。数年間に及ぶ、毎日のメール安否確認が、役に立ったとも言える。いつもの帰国は楽しいスケジュールで満ちていたが、今回は不安でいっぱいの帰国であり、航空機の座席でありながら、これほど辛い想いをしたのは初めての体験であった。実家の家族は3世代6人で、賑やかに暮らしていたが、現在は、年老いた母1人だけで暮らし、家族は年齢や病気が重なり、私1人の息子だけが残った。こんな背景からも、自分しかいない、という重圧がさらに不安を煽っていた。

 

帰国後、すぐ病院の説明をして頂いた事務担当者に挨拶をした。母は元気ではなかったが、寝たきりで苦しんでいる様子でもなかった。入院の事実を知らせなかったのは「心配を掛けたくなかった」かららしい。精密検査の結果、脳に大きな問題はなく検査入院を終えるが、体の動きが遅く、制限されている。パーキンソン病や筋ジストロフィーや脳外科的な症状など、さまざまに疑い、3つの病院や先生でも意見が分かれましたが、皆、仮説の病名でした。この分野に詳しい先生がいると聞いて、国立大学の教授に診察と見解をお願いしたところ、臨床における眼球や体の動きと、脳の断面図、病状経過からして、「進行性核上性麻痺」の可能性が高いとのことでした。医師からの、おおよその内容で①治療法はない②余命数年の可能性が高い、ということでした。大変ショックな診断結果でした。

 

ソーシャルワーカーの病院の相談員や社会福祉士の方々に、何度も相談し、自宅に来てもらい、老人施設か自宅かの選択をし、本人の意思で自宅で治療していくことにしました。転びやすくなっていたため、1階のすべてに手すりを加え、トイレとお風呂を改造してもらいました。レンタルの杖や道具も借りました。毎日、お昼にお弁当業者に安否確認を依頼しました。これの病院から自宅、そして老人施設から病院となりますが、ソーシャルワーカーさんをはじめ、支援業者さんには大変おせわになりました。1つ1つ誠意をもって仕事をして頂いたと思います。ここは日本人の凄いところだと感じました。

 

入院から1年で、インドネシアから4回帰国しました。ソーシャルワーカーさんや病院やデイケアの老人施設にお世話になりながら、必死の日々でした。この間の半年は割愛して、いよいよ自宅に住むことは不可能となり、老人施設に移ることとなりました。きっかけは1人で着替えることができなくなったからです。この知らせでまたインドネシアから帰国しました。

 

イザ、老人施設を探すにも、空きがありません。都市部では空きが出てきたが、今は地方が空きが少ないそうです。家で生活ができないので、ソーシャルワーカーさんとの連携で、帰国前に病院の地域病棟といって、事実上、入院する必要は認められないが、老人施設に入れない方が、一時的に入れる便宜的な病棟に移動してもらっていました。家族がいないので、家族代わりにソーシャルワーカーさんが病院に必要なものをもっていってもらいました。希望の2つの施設に空きがないだけで、他は探せばあるということで、地域の施設を10カ所程度見学しました。

 

すごく条件や現場がよくない施設もあり、腹立たしかったのですが(悲しく)、今は社会問題を追求する時間はありません。ブログの趣旨もあるので内容を割愛します。イザとなったら社会批判など限界あがあり、まず自分の家族の最低限の施設を探のが優先。理想はあっという間に崩れ、動けない家族を抱えていたので、余裕はなく必死で、インドネシアの会社の問題や、家族の問題も発生し、これらを解決することは不可能と思えました。

 

母が40年勤めていた病院系列の老人施設があり、希望を出していたので数週間後、偶然空きがでました。施設の目途が立ったことは救われた気分でしたが、本当の苦しみはここからでした。

 

老人施設に入居するとすぐに、歩行が難しくなり、車椅子での移動となりました。指定難病で完治が不可能であり、進行性なので、時間とともに不自由になることは覚悟していましたが、想定よりかなり早いペースで、動けなくなっていきました。麻痺が進行していく過程で、車椅子でも1人でトイレができた状態から、介助なくしてはトイレができない状態に移行した際には、トイレの度に、介助のために人を呼ばなけばならず、今までできた日常生活が次々にできなくなっていく度に、ショックで落胆し、進行性であるため、本人も私も、繰り返し、ショックを受け、苦しみ、なんとか受け入れて、やっていくしかありません。やがて介助でのトイレも徐々に負担が大きくなり、オムツ以外の選択はありませんでした。介助がなくてはトイレに行けないころ、ベットで太ももをさすりながら「全く動かない」と悔しそうに、悲しそうにしていた母の姿を今でも思いだします。

 

老人施設に入れたとはいえ、普段なにもできなかった想いもあり、毎日施設にお見舞いにいくことにしました。しかし進行性の難病のため症状が悪くなる一方であり、本人が苦しむ姿や悲しむ姿を見ることが多くなり、毎日、母に会うことが辛くなってきました。50年間、産み、育て、支えてくれた母が、そのように不自由に、深刻に苦しむ姿を見のははじめてであり、その姿を観ているだけで、空元気も有効ではなくなり、自身も抑鬱的な精神状態となり、親子ともに深刻な苦しみであったと感じます。

 

毎日、施設に通うことが、苦しく陰鬱で、正直、放り投げて逃げ出してしまいたいと、思うようにもなりました。それら自身の精神的ケアも含めて、病院や施設の相談員や担当医師に相談を繰り返して頂いているうちに、多くの難病患者と家族が同様に苦しんでいる事例など、私と同じ想いをしている人間の多さに驚きました。自分が壊れるほどの介護は必要ないが、50年間なにがあっても力になってくれた人間に、日々何もしないではいられず、1日最低30分はお見舞いすることを決めました。

 

梅の花が咲き始めたころ、施設横に桜が奇麗にさく公園があり、思い出して車椅子で、まだ少し肌寒い頃散歩をしました。小学校の通学路で毎日通る公園。そのとき不思議な直観で、母が桜を見られる最後のチャンス、と感じました(その通りになってしまう)すぐ、インドネシアの家族3人に帰国してもらい、孫も一緒に、桜のお花見をするこにしました。4月の初旬、桜がちょうど満開。晴れた日に、公園まで家族でお散歩ができました。今思えば、まんべんの笑みがあったのはこのときが最後だったか?と印象に残るほど、病気が治ったのでは?と思ってしまうほど、生き生きとした笑顔と泣き顔に感じられました。このとき、風にピンクの桜の花が舞っていく様子は、儚く美しくもあり、映画とは違い、不安で不安定な世界にも感じられ、子供たちのどうでもいい内容の会話だけが、頼もしく感じらた。

 

また前触れもなく、施設から連絡が入り、進行性の病気が進み、いよいよ食事ができない状態に近くなっている、と。病状から想定されていた段階であり、また最も恐れていた症状でもあるいわゆる「嚥下障害」である。主な病気ではなく、老衰で亡くなる場合も嚥下障害が大きな段階となり、終わりのはじまり、と受け止めていた。想定内で予測済みであるが、まさかこんなに、早くやってくるとは思ってもいなかった。桜見をしてまだ1か月であり、再び帰路に就いた。羽田に向かう航空機内では、落ち着いて観られる映画などあるわけはなかった。

 

施設で母の昼食を介助したが、確かに飲み込みが悪い、やわらかいおかゆであっても呑み込めず、水を飲んだときでさえむせてしまい、嚥下障害に対応したトロミをつけたものになっていた。進行性でさらに嚥下障害が進むと、時間の問題で食べ物が気管支や肺に入ってしまい「肺炎」に至る。予断は許さない、この状態では家族が大きな決断をしなければならない。

 

意識がしかっりしている際に、もしくはドキュメントで、本人の意思で「延命治療」についての判断があればよいが、ない場合は、家族の判断となる。大きな病気になる前に延命治療に関しては話し合いをもった方がよい、とされるが、現状日本ではなかなか難しい。母は進行性の難病であり、嚥下障害はさらに深刻化することは間違いないと、診断された。ここで、日本では以下の2つを決断する必要がある。①嚥下障害なので食事をとらせず、水か点滴にする。胃に穴をあけ栄養を直接送り込む②胃婁にする。大きく分けてどちらかの選択を迫られる。要するに胃婁するか否かの選択。年齢や病巣から、胃婁も人口呼吸器や点滴同様、延命治療である。

 

欧米のキリスト教圏の一部(スウェーデンなど)では、口から物を食べられなくなったら、そのときは命の終わりであるとして、延命治療は行わない。胃婁などの延命治療をしなければ、食事が水だけとなり、やわらかい餓死がおこり亡くなる。これを国家から国民のコンセンサスとして、伝統化され医療現場で家族も「当然の合意」として、ほとんど選択や決断をしなくてもすむが、日本は延命(胃婁)か否か、選択を迫られる。またこれが調べれば調べるほど、胃婁賛成派と胃婁反対派(延命賛成と反対)に分断されており、医師や患者の体験も両方に分かれている。これはとても恐ろしい事実であることに気がついた。

 

このような場面を若干想定し、数年前に「人工呼吸などの延命をしたいか?」と思い切って、直接、母にきいておいたことがある。答えは「いらない」であった。延命治療に関する正式 な文章でなくても、本人がキチンとした意識のときに、聞いておくことが、この問題が解決されやすい方法であると、多く記されている。このことから私は延命治療である胃婁は、しない方向で考えるべきだとして調べはじめ、相談員や医師とも相談した。何らかの仕事であるならその方向で進め実行していたかもしれない。しかし、産み育ててもらい50年間、母として残された最後の家族である。過去1年に渡り、検査や治療や介護にたずさわり、ここで2つの選択を迫られる、①胃婁で延命に期待②胃婁せずやわらかい確実な餓死、どちらかだ。これに関し胃婁派や反胃婁派(延命治療推進派と反延命治療派)は、さまざまな議論を展開している。しかし本人の意思を聞いているなら胃婁しない方がよい、で進めるのが当然だが、数週間後に、私は「胃婁をしない」という決断が鈍っていた。論理的には、いくつもの展開で「胃婁をするべきではない」ことはわかっていた。であるなら、もうすぐ食事ができくなる現実に、水や点滴だけで、命を止める、決断がどうしてもできなくなっていた。理屈ではもっと、延命治療をしない方向と準備を進めるべきであったが、理論や論理ではなく、ただどうしても「決断によって母の命を止めること」が、感情的にできなくなっていた。

 

残された家族や兄弟で話し合い、本人の意思を繰り返し確かめ、共同体である残された家族の強い意志を形成し、やっと死への決断ができるものかもしれない。(もしくは親への想いが、もう少し薄いのであれば、むしろ決断しやすいと感じた)私は残された家族1人であったが、自分自身の意思の変容に驚いていた。まさか、胃婁も検討するとは自分でも思っていなく、しかし、直接の感情である「どのような状態でも、ただ母に生きていてほしい」という、本人のためというより、自分自身のエゴ的感情であった。感情的に母の命を、そのまま放置して死亡させるイメージが受け入れられず苦しんだ。私にはスウェーデンのよううな死生観は受け入れられない、と感情が判断していた。

 

その後、迷惑千万と理解しながら、施設関係者の医療者、相談員、医師に、繰り返し相談した。タイムリミットが迫っていた。そんなとき、ネットサーフで目に止まったのは、死刑執行の刑務官の証言でした。https://times.abema.tv/news-article/2660403

 

戦時や混乱期ではなく、平和な社会であるにも関わらず、「死を判断し決断しなければいけないケースはあるか?」と考えたとき、医師は積極的な死への判断はできず、計画的犯罪で殺人者は当てはまるが、多くが利潤が目的であり、対象に感情移入していない、していれば殺せない。そのとき刑務官は仕事であり、顔見知りとなり感情移入した死刑囚を、執行日には殺すために、死刑執行ボタンを押す、決断を迫られることがある。ブログでは顔見知りになった死刑囚を執行させるために、いたたまれず、犯罪歴をしらべ、これだけひどい、身勝手な殺人者なのだから、死刑は当然であり、誰かがそれを執行しなければならない。など死刑執行の重圧から、自身を納得させるため、執行の正当化を繰り返し自身に言い聞かせる。それでも死刑執行に携わり、ボタンを押す人間の心理や重圧は甚だ大きい。理屈では何重にも正しいのだが、人間の命を決断し、死に向かわせることが、どれだけの重圧であるか?よって死刑執行ボタンは5人が一緒に押して、誰が執行したか、わからない(自覚できない)システムになっている。

 

仕事であり、対象が死刑囚であっても、死の責任を行うことは、大変なプレシャーでショッキングな心理を伴うことになる。ましてや、50年間、面倒をみてもらった母の命に、責任をもち、死の執行をすることなどできるのか?この理性的な判断が、どれだけの地獄の苦しみなのか、逃げることなく、まともに立ち向かえば、向かうほど、理性や論理的判断から遠ざかり、直観的な感情が有力となっていき、自身のエゴと認識しながらも、どうしても目前の母の死を決断することはできなかった。とりあえず「母の死」だけは、先送りにしたかったのである。それ以外は何も考えられなくなった。迷いや恐怖が、なくなるわけがないが、それが愚かな決断とも感じなくなっていた。最後には直観を信じるべき、という信念も手伝っていた。

 

当初の延命治療はしない方向から、胃婁手術をお願いすることになった。手術入院後、手術後1カ月もしないうちに亡くなってしまう。これがわかっていれば、当然、胃婁手術はなかったし、もう少し安らかに死ぬことができたと思うが、これがはあくまで後悔であり、決断の根拠として考慮できた内容ではない。病院での看病もつらい日々であり、老人施設と同じく、辛い日々ではあったが、実家で暮らすことができず、1人暮らしをさせていたこともあり、最後くらいは、毎日一緒に居たいと思い、1日最低1時間は、面会にいくこととした。後に、これら自分に課した、1年間に渡る、小さな義務(信念)の積み重ねが、亡くなったあとや、葬儀後に「やれることは十分やった」と、自身に偽りなく思えた。自身を納得させるためのエゴに過ぎないが。母の最期に関しての後悔は、その後、比較的小さいと思える。

 

手術や入院のプロセスは飛ばし、最後の「看取り」だけは書かなければならない。最も苦しくショックだったからだ。病院から老人施設にもどり、ほどなくして、施設から「容態が急変した」との連絡が入った。覚悟していたことだが、まさか、今日、その連絡が禍々しく入るとは驚きであった。主治医からは、単刀直入に「山は今日、明日、会わせたい人がいれば・・・」とのことだった。母の兄弟も老人施設であり、海外の家族にも連絡を入れたが間に合わない、唯一健康な叔母も家族が入院しており、看取りは1人ですると伝えた。

 

一旦家に帰り、長時間の施設滞在の準備をしてきたが、すでに呼吸がだいぶ荒くなっていた。担当医の経験だと、もう長くはもたない、短い時間だ、ということだった。最近では兄の看取りに立ち会ったが、くらべものにならず、桁外れに動揺し、歩くのがやっとであった。ここで自分が倒れたり、看取れなければ、母を看取れるのは自分だけで、ショックと恐怖で混乱し、貧血気味のからだに「ここで負けるわけにはいかない」の一心で、自身の肉体と精神をあらためて強く意識し震え立たせた。

 

老人施設とはいえ、看護師も複数いた。もはや意識があるかないかの状態で、マシンによる淡の吸引が行われる。窒息死を防せぎスムーズな看取りをするために。目的は理解できるが、死を目の前にした人間に、つらい苦しそうな姿は背筋が凍り付く思いであった。目の前で起こっていることが、信じられない光景の連続であった。

 

病院ではないので、簡単な測定器を指にはめ、脈拍と酸素飽和度をみることができるようになりました。あわただしかった部屋も、私と母だけとなり、最後の時間であることを知った。指の数字の脈拍と酸素飽和度のどちらかであるか、記憶があいまいですが、少しつつ小さくなる、どちらかの数字に注目するようになりました。注目してすぐ、徐々に数字が下がってくるが、また少し上がりを繰り返しますが、やはり徐々に数字が確実に小さくなっていきます。8070か忘れましたが、どんどん小さくなるので、まさに命の数字と考え、さらに呼吸も虫の息のごとく小さくなっていき、これ以上数字を下げないために、意味がないとわかりつつ、母の体をマッサージして数字を上げようとしました。どのくらいの時間が経過したか、時間感覚がなくなっていましたが、長く永く思えました。

 

そんな必死のマッサージと呼びかけをしていると、数字はさらに下がっていきましたが、突然、数字が消えてから、数字がジャンプアップして大きくなりました。「奇跡が起きた」脈拍と酸素飽和度がもとにもどり、奇跡的に意識がもどる、と考え看護師を呼びに行こうとし、母を呼び起こそうと、顔を覗き込んだ瞬間、虫の息であった呼吸が、完全に止まっていることに気がつきました。状況が一瞬わからなくなり、看護師さんを呼びにいくと、臨終の時刻を確かめました。計器の数字がジャンプアップしたのは、数字が下がりすぎて測れなくなったことのようです。小さな呼吸から、完全に呼吸が止まる瞬間を看取ることができました。

 

部屋に医師や看護師が入り、一通り話したあと、ふと我に返り、少し自分自身を感じ、その部屋で話していた看護師さんの前で、話ができないほど取り乱し、嗚咽がはしり、経験がないほど、人前で崩れ泣きました。10分もすると会話ができるほどに平常化し、葬儀屋さんの手配など自宅に一旦帰る算段をしました。ここからは、葬儀屋さん、施設、お寺、役所、家族の到着、親戚の到着、ご近所、母のお世話になった方々、お通夜、葬儀、などミーティングが繰り返され、忙しくスケジュールを、こなすだけでした。1人で、母に向き合っていた緊張感と責任から解放された、と感じ、もとの世界、もとの意識に戻った感があった。1年以上に渡る母の、介護、入院、治療、看取り、葬儀、相続、は終わりました。難病指定されている不治の病であることで、余命宣告されたときから、ショックと苦しみ、悲しみが繰り返されました。

 

ソーシャルワーカー、相談員ををはじめ、複数の病院スタッフや医師、老人施設のスタッフさんなど、重い相談を真剣に受け止め、一緒に解決を目指す姿勢の関係者によって、なんとか生きることができた感があります。日本の介護・医療問題は多く指摘されていますが、まだ、一生懸命、深刻な相談を真剣に受けてくださる環境も残っています。関係者の方々には大変感謝しております。現在の医療・介護サービスは日本の実力であると思います。

 

混乱期でもない、平和な社会にありながら、それでも人間は、繰り返し問題に直面し、ショックを受け、悲しみ、苦しみ、絶望するしかないのかもしれません。お釈迦様が、修行に入るときは、家族には会わない、としたのは深刻な苦しみ(煩悩・幻想)を、回避するためと思われます。今回、率直に、自身は深刻に苦しみすぎたのかな、と感じています。たとえ、悟りに至らないとしても、もう少し死を覚悟し、母の死を受け入れることができれば、ここまで長く苦しまずに済んだのかな、と感じました。

 

地獄の日々は永く感じ、終わりが見えないと感じますが、現在は明らかに地獄ではなく、比較的穏やかな生活があります。「自然災害」「人為災害」などの混乱がなくとも、各個人は人生において、繰り返し問題を抱え、苦しみ絶望します。だからと言って人生を恐れる必要はなく、永久の地獄もありません。平時であれ、乱世であれ「生き生きと、生きる」と、根拠のない希望で十分。人間である前に、動物であり、生命なので。


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